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2017年3月4日土曜日

富士断腸殺し

 ”小さきもののマエストロ”と謳われる同業者氏より、一冊の本、というより日記帳をお借りしています。松本かつぢのチルチルミチルの挿絵が表紙に描かれたノートで、戦中に6年生だったK子さんの手になる夏休みと冬休みの日記です。土佐日記、断腸亭日乗、富士日記、東京ペログリ日記や雄壱郎雑記など、日記にもいろいろあって、虚実の度合はそれぞれに異なりますが、小説のように説話論的持続に縛られない分、どこから読んでもどこで終えてもよい自由があるのが日記のおもしろいところでしょう。
 ですからこの日記もどこを開いてもいいのですが、慣例にしたがってまずは表紙をめくることにします。すると一番はじめの頁にはこんな文が書かれています。「◎先生 しつれいですが 紙を節約して夏休の日記帳へ書きましたのでおしまひの方を見てゐたゞきます」夏休みで使い切らなかったノートの余った頁を、冬休みの日記としても使い回したことを先生に断っています。他にも「今日は一日中お天氣がようございました」とか「お母さんが一人でせんだがやへいらつしやいました」とか、当時では普通だったのかどうか、K子さんの丁寧な言葉遣いを目にすることができます。字も一画一画を揺るがせにせず罫線に対して真っ直ぐに書かれていて、几帳面であったろう性格が伺えます。
 日記中の出色は、那須の祖母の家に行くくだりでしょうか。到着が遅くなり駅からの車がつかまらず、祖母宅まで徒歩で行かざるをえなくなった箇所。「バスに乗つてさへとほいといふ所をその上歩くなんてとんでもないと始は思ひましたが後にはかくごをきめて歩くことにきめました」心理の流れの的確な素描はヴァージニア・ウルフを思わせます。
 またその前段、車内でぼんやりとしているところに、唐突に目的地への到着を告げる車掌さんの声に慌てる箇所では「私は はつとしてすぐお母さんだちと降りました 外は眞くらで驛だけがパーとあかるく電氣がついてゐました」とあって、経験を直に描写する筆法はほとんど志賀直哉のようです。
 大晦日の頁に「紀元二千六百年よ <さらば>」とあるので、ここに書かれたのは西暦だと1940〜41年の出来事です。その頃の学校制度だと国民学校初等科というのでしょうか。6年生ならば11か12歳。ジャン=リュック・ゴダールや草間彌生と同じ世代ですから、十分に存命の可能性があります。K子さんは今どこで何をしているのでしょう。しっかり者に見えるK子さんですが、ニンジンとネギとナスが嫌いで、割と寝坊が多いです。




とても魅力的なイラストレーション


 








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